クレーのある部屋10 The Room with pictures of Paul Klee – 10

両親への感謝  “Before the Town”  (1915)

2年前、母の誕生日に、クレーの”Before the Town (1915)”の絵(アフロプリント)のMサイズを、シンプルで好き嫌いのでない白木の額を選び贈った。フランス印象派が好きだった母にわたしなりの趣向をいれたかったためだ。母の部屋に飾った。母はよろこんでくれた。

今回のエッセイを執筆してあらためて気づいたことがある。わたしが、つたないながら、まがりなりにもアート(絵画)に親しみ、味わい、楽しむことができるようになったのは、両親のおかげである、ということだ。

“Before the Town”は、先に触れた”Southern Garden. 1914.”(玄関の吹き抜け空間に掛けた)と同じく、クレーの初期の作品だ。作風は、フランス印象派の延長線上にある。色彩に富み、やさしく、親しみやすい絵だ。

わたしが小学校の頃、世界の名画(プリント)を毎月1作届ける出版社のサービスを注文してくれた。もっともわたしを芸術方面に進ませる気は毛頭無かった。芸術に親しむことも大切といっていた。

母(旧姓山村)が教えてくれたことは、おもいやりの心、他の為に行うこと、実践の大切さ、そして実生活における数字、採算性の重視ということだった。母は、三重県松阪の実業家の家に7人兄弟の四女として生まれた。その父(私の祖父)は、松阪紡績㈱の社主で、三重県の織物協同組合理事長を10年以上務めた人だ。昭和37年に黄綬褒章(おうじゅほうしょう; 農業、商業、工業等の業務に精励し、他の模範となるような技術や事績を有する人におくられる)を宮中でいただいた。創業期の井村屋製菓(現・井村屋グループ)の役員も務めた。投機ではなく、事業への投資との考えで積極的に株式投資も行った。事業(紡績業)と株式投資を広い意味での事業の両輪とした。もっとも敗戦後に、大量の満州鉄道株を焚火で焼いていたこともあったという。わたしのビジネス感覚の一端は、母の血を引くところが大きいと感じることがある。もっとも祖父には遠くおよばないが。

父には、”Rocks at Night” (1939) を贈った。父も絵は好きだった。東山魁夷や平山郁夫の展覧会などに夫婦で足を運んでいた。リビングに飾ると良いといって、ビュフェの「赤い花」版画(リプリカ)をプレゼントしてくれた。わたしたち家族にとって、忘れることのできない、あたたかい心のこもった、思い出深い絵だ。

父は昭和3年三重県安芸郡芸濃町椋本(現・津市椋本)に中湖家の長男として生まれた。中湖家は大正期に織物事業進出、工場建設のため、芸濃町中縄から移転した。昭和2年の金融恐慌のあおりを受け、山もいくつか売ったと聞いている。事業的には苦戦したようだ。昭和4年、わずか4才のときに父親(私の祖父)を亡くした(享年27才)。父は子供の頃から写真が趣味で、先代から受け継いだと思われる大正期、昭和初期の写真を含め、今もかなりの量の写真がアルバムとして残されている。

当主が早くに亡くなり、戦後の農地改革もあり、中湖家は衰退していたわけだが、津市の名士で、織物業を営む冨田家の先代当主が中湖家から養子としてでていたこともあり父と母は結ばれることになったようだ。冨田ご夫妻の媒酌で、東洋軒本店(津市)で披露宴が行われた。

父は三重一中(現県立津高校)に進んだ後、学徒動員で自ら志願し、通信兵として兵役に従事し満州に赴いた。終戦直前に、上官が自らの判断で「日本に帰れ」と指示をだし、食料をできるだけ詰め込んだ重いリュックをかつぎ、その途上、川を死ぬ思いで渡ったりして帰国したという。遅れていればシベリアに抑留されていただろう。日本についた時は、かついでいたリュックがあがらなくなったという。国内は食料不足で苦しんだ時期であるが、軍には食料が優先的に供給されていたらしい。

日本にもどると、入試で募集しているのは日本大学芸術学部しかなかったので、受験して写真学科にはいった、と自嘲まじりにいつも言っている。そんなものかと思ってきたが、写真が好きだった、ということが最大の理由であろう。戦後の映画ブームの初のだったろうが)として興行を行い、人気を博したという。

昭和29年2月27日結婚、7月に上京して、父の大伯母の嫁ぎ先が板橋区常盤台一丁目にあった縁で、常盤台二丁目で写真業をはじめた。当初、大手広告代理店からの依頼で、カメラマンとしてブロマイド写真の撮影もしていたという。その後、製造から販売まで一貫した事業で、写真の技術を生かし、カラー写真の会社を昭和37年に創業した。東京オリンピックが昭和39年なのでその前々年、時機にかなったものだった。

幼少の頃、父に当時の東京放送(TBS)のスタジオのある社屋*に連れていってもらったことがある。それは両親が夫婦喧嘩をした後だった。TBSの2階のレストランでカレーライスを食べた。夜だった。社屋内の電話から父が母に電話し、わたしも母と話した。子供心にとても心配で、心細い思いをした。それは、ちょうどカラー写真の新会社を立ち上げる直前(昭和37年)だったのではないか。メディアの仕事を続けるか、新事業にでるかが話し合われた。そこで意見が分かれたのかもしれない。

* その後TBS会館になり、今は「赤坂サカス」が建っている

このエッセイを書いているうちに、バラバラだった記憶と記録の断片、いくつかのパズルのピースが組み合わさっていく感がある。どちらがどちらの意見だったかはよくわからない。父は何も語らない。今となっては推測の域をでない。昭和37年は、わたしが5才の時だ。その年代とは思えない鮮明な記憶がよみがえってくる。

母は、昨年(2020年8月)亡くなった。今、”Before the Town”は父の部屋にかけられている。

両親が欧州旅行の際、ゴッホで有名なアルルの病院跡に訪れたときに、母が作った短歌をたまたま見つけた。メモ書きに残されたものだ。

「アルルにて病院の庭に向かいたり 画家のこころをしのぶも哀し」 (母の作)

今でこそ、ゴッホといえば知らぬ人のいない世界的な大画家だ。弟テオの支援を受けて絵を書き続け、画家としての天職を貫いた。しかし生前中は、1枚の絵しか売れなかったという。ゴッホの心を思うといたたまれない気持ちになる。

アフロのアトリエ(銀座)を訪れ、クレーへの思いを、専門家としてではなく、愛好家として書きたいと思っているといった時、古賀さん、松村さんが即座に賛成してくれた。アフロも写真と縁の深い会社であり、デジタル技術を使いアートを人々に親しみもてるように提供してくれる。ここに、何か目に見えない縁、あるいはこころの共感というものがあるのかもしれない。

 

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