クレーのある部屋1 The Room with pictures of Paul Klee – 1

はじめに

パウル・クレーの絵が好きである。本エッセイは、わたしのクレーへの思い、感じかた、クレーの絵(アートプリント)をつかったインテリアの軌跡をつづったものだ。

家のつたいない応接間に、アフロプリントのXLサイズ3枚、リビングにXLサイズ1枚、吹き抜けの玄関にMサイズ3枚を飾っている。実はもっと掛けたいのだが、そうするとやや仰々しくなり、かえってクレーの魅力を損なってしまうかもしれない。何ごとも過ぎたるはおよばざるがごとしだろう。ほどほどが肝心だ。

絵画という視覚的芸術にあまり理屈、理論、知識は不用であろう。その絵、画家が好きかどうか、他の絵、画家とくらべて好きかどうか。その程度や感じ方が大切だろう。玄関先と応接間の空間のインテリアとしてわたしにとって、今のところクレーにまさる絵(プリント)はないと感じている。

ルネッサンス期の絵、例えばレオナルドダヴィンチ、印象派のゴッホ、セザンヌ、マネ、モネなどの絵は素晴らしい、好きである。しかし、それは、わたしがクレーへの愛好とは少し違う。いやかなり違うと言って良いかも知れない。クレーの絵はわたしの感性と馴染みがよい、あるいは、わたしが求めるものを表現してくれているといったらよいだろうか。クレーの絵(プリント)をつかったインテリア空間をつくりたかった。

一般に、アートにおいて好きになると、そのアーティスト、画家の生涯、思想、芸術理論、芸術史上の位置づけなどいろいろ知りたくなるのが常であろう。しかし絵画のような視覚的芸術には、知識の侵入には警戒が必要であると思っている。頭でっかちになると、絵の魅力を台無しにしかねない。感性と行動を大切にしたい。
それは、絵、プリントを選び、実際に掛けてみることだ。

だからわたしはクレーの生涯や解説、芸術史上の位置づけなどあえてあまり踏み込まないようにしている。それらの知識が、クレーの作品に対する感じ方に介入してこないようにするためだ。クレーのある絵に感じたことが、学者、評論家の方々の解釈と違ったとしても、仮にクレー自身の創作の意図と異なっていたとしてもそれはかまわないではないか、わたしは自らの感じ方を大切にしたい。これが基本的な姿勢だ。

といいつつ、今回クレーのアート、そのプリントをつかったインテリアについてつづるにあたって、クレーの著作を含む数冊の本を読むことにした(巻末「参考文献」参照)。それが読者に対するエチケットであると思ったからだ。

結果的に、わたしのクレーのアートに対する感じ方に変化は生じなかった。題名とわたしの印象、装飾の意図が異なったものがいくつかあった。それはむしろ絵画という視覚的芸術にはあって当然だし、面白さでもある。アートというのは、創作者と受け手との対話であるということを感じた。自由な空間だ。それは喜びだった。

本書がクレー鑑賞にあたって、またクレーの絵(アートプリント)をつかったインテリアに関心のある皆さまの参考になればとてもうれしい。

クレーのアートプリントのコレクションは、クレーの膨大な作品群のほんのひとにぎりに過ぎなく、またそれは
折々に気に入ったもので、わたしの好みに片寄ったものである。わたしのクレーに対する感じ方に寄り添う形で、アフロの古賀さん、松村さんがナビゲートしくれた。また、ときに脱線しかけるのをふせいでくれる。それはとてもありがたく、楽しく、わたしの想像を膨らましてくれる。

2021年5月
中湖 康太

にほんブログ村 本ブログ 詩集・歌集・句集へ   にほんブログ村 本ブログ 古典文学へ   にほんブログ村 本ブログへ