アイロニーの研究 (1)

第1章 アイロニーの一般概念

なぜアイロニーを取り上げるのか?

アイロニーは、皮肉、当てこすり、反語などと訳される。なぜアイロニーを取り上げるのか。それは、アイロニーが、現代的、都会的でしゃれた自由な個のあらわれだからである。

ただし、それが否定性を本質とするがゆえに、人間社会を根本において規定する共同体的性質と相容れない側面を持つことになる。ここに人間の内面、精神世界における矛盾、苦悩が生ずる。

人間社会の進歩とともに、個人主義的内面世界が深化し、広がってくる。しかし、依然として人間社会を本質的に成り立たせているのは、基本的には共同体的、地域的、社会的なつながりであり、集団性なのである。

アイロニーは魅力的である。都会的にして自由。しかし、一方でそれは危険である。

本論の目的は、アイロニーの本質を明らかにすると同時に、アイロニーの矛盾、つまり自由な個人と共同体としての人間社会との対立を解消する手だてをさぐることにある。

アイロニーの一般概念について

アイロニーの一般概念について語るとき、ヘーゲル(1770年8月27日 – 1831年11月14日)とキルケゴール(1813年5月5日 – 1855年11月11日)によるのが適当であろうと思う。その理由は、アイロニーは、まず第一に、精神的、内面的な規定であるということ、第二に、この二人の19世紀初頭の代表的哲学者によって、アイロニーが意識的に近代的自我のあらわれとして研究対象とされたからである。

アイロニーの概念を考えるとき、ヘーゲルにおいては、その体系の中で部分的に考察されるにとどまっていると言えるかもしれないが、内面世界の歴史的な発展、変化の中で、近代的精神について語るとき、ヘーゲルにその拠点を一応つけておくのは間違いではないだろう。好みからすれば、いささか視点は異なるが、デカルトにそれを求めることも妥当かもしれない。但し、アイロニーの概念をより意識的に、明示的にとらえていること、歴史的な位置付けの観点から、この2人によることが妥当と思われる。

くりかえしになるが、ヘーゲルとキルケゴールは、ほぼ同時代に生き、何よりもアイロニーを直接に考察、研究の対象とした。そして、近代において、アイロニーがことさら問題とされるべき理由は、それが、近代的自我、近代的個人主義に関連しているからである。

中湖 康太

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