ライバル ‐ a short story

寺本はなぜ出門のことをライバル視するのか。二人はまるっきりタイプが違う。寺本はスポーツ万能。出門は苦手。だが英語は得意。彼は苦手。しかし、二人は、Speed社で同期の関係にあった。Speed社は、経済情報をインターネットでリアルタイムでサービスする会社だ。

出門は、大学時代を怠惰に過ごした。自分勝手にやりたいことをやった、というより何もしなかったといった方がよいだろう。経済学部にありながら、文学にこった。ペンクラブに入り、短編小説や文学評論などを数本書いた。といっても1年の留年を含め5年間という時間を考えればあまりにも少ない量だ。

ゼミナールは、経済学部にあり自主的に好きな分野を研究してよいという寺島ゼミを受けた。寺島教授は慶南大もサラリーマンだけをつくってもしょうがない、とゼミの親睦会などでポツリということがあった。出門のどこを評価してくれたのかわからないが合格した。大学2年生の後半のことだ。3年からは専門課程ということで、東湘線沿線の日佳キャンパスから都心港南区の八田キャンパスに移る。

出門は慶南大学4年生のときに就職できず、1年留年した。銀行や商社の面接試験で、「君は何をやりたいのか」と問われ、「小説家になりたい」と答えた。といって、出門は出版社や新聞社、いわゆるマスコミは受けなかった。無論、受けたとしても多分入れなかっただろう。世は不況で就職難という時代だ。友人の多くはいわゆる有名企業に就職していった。出門ははじめて挫折感を味わった。大学時代は、就職のためにAの数を稼ぐことに躍起になっている学生たちをあざ笑っていた。ところが結果的には、出門があざ笑われる立場になった。自業自得というわけだ。

出門の親は、大学時代、無益に過ごす息子をみて、この時ぐらいしか自由な時間はないだろうから好きにやれ、といってくれていた。そんな親心も知らずぐうたらと過ごしていたのだ。1年の留年を何も言わず支えてくれた親には感謝だが、それを感謝もなく当たりまえだと考えていた。本当にしようがない人間だ。こんな人間を企業は雇うはずもない。

出門ははじめて自分が愚かな人間であることを知った。自分のことしか考えていない、それが人間として最も恥ずかしいことだということを知った。出門は、両親の知人で物流事業を営む二宮氏から、「頭でっかちではだめだ、身の回り、足もとのことを謙虚に行いなさい」と教えられた。二宮氏の指導でその業務を手伝うことになった。早朝5時、業務開始前にに倉庫内外を清掃した。倉庫前の道路に、たばこの吸い殻、レジ袋、ビールの空き缶などがのゴミをせっせと拾い、ほうきではいた。ごうまんな心は出門から流れ出ていった。大学5年生の時のことだ。出門はすがすがしい気持ちになった。

Speed社を知ったのも父親が、同社の志村社長と絵画の趣味を通した知り合いだったからだ。正確にいうと、ある画商を通して知り合いになった。この画商は榎木といい男気のある人物だった。少々やくざっぽいところがあるがそれがこの人の魅力でもあった。出門は、榎木氏が、両親を訪問したとき、お茶をだした。「いい息子さんだね」と、榎木氏は大そう出門をほめてくれた。

大学5年の秋、出門は、Speed社に表門から堂々と入社試験を受けて入った。もっとも榎木が志村社長に話を通してくれていた。志村社長は元財務省の投資局長だった。Speed社の大株主は亜細亜経済新聞社だ。Speed社は、関東証券取引所の株価情報をオンラインで独占的に配信していた。米国のQuotation社、英国のRouter社が、当時のIT革命で、経済情報を専用端末でリアルタイムで配信し、躍進を遂げており、日本も遅れまじと官民一体で設立されたのだ。 投資業界をまとめるために、亜細亜経済新聞の江尻社長が、元投資局長の志村氏を社長として迎えたのだ。

続く

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